破 約




景元五年の正月。
懐かしい成都の宮城の一室で、張翼と姜維は二人きりで酌み交わしていた。
酒にはめっぽう強い姜維だったが、今宵は珍しく切れ長の目の際を赤く染めている。

その端麗な容姿から、"華武者"とも、"天水の胡蝶騎"とも称される姜維。
白皙の頬に朱を走らせながら酒に酔うさまは、女人も顔負けなほどに艶やかだった。
思わず張翼は、杯を傾けながらつぶやいた。

「こうしてみると、まるで嘘のようだな」
「何が?」
「伯約が、その身で蜀漢を背負ってきたことが、な」

何気なく発した言葉。
しかし姜維は、静かに目を伏せた。
長い睫毛が影を作り、その心の内のように揺れる。

「・・・やはり、私には過ぎた責であったのかも知れないな」
「あ、いや。そういう意味で言ったんじゃなくて・・・」

張翼は焦り、口ごもった。
まさしく姜維こそ外柔内剛と言いたかっただけなのだが、どうも誤解を招いたらしい。
しかし姜維は、すぐに笑みを浮かべながら言った。

「いいんだ。現にこうして、私は国を喪ってしまったのだから」

張翼は応えなかった。
互いにそれ以上は何も言わず、ただ、己の杯に目を落とす。




















大将軍として蜀軍の頂点にあった姜維と、左車騎将軍としてその次席にあった張翼。
鍾会を大将とする魏の大侵攻を受けた二人は、おのおの一軍を率いて応戦しつつ、剣閣で合流した。

寡軍ながらも、彼らの率いる蜀軍は善戦していた。
剣閣の地形を活かした戦術の巧みさに、魏軍は苛立ち、ただ徒に死傷者を増やす。
長期にわたった遠征の疲れもあったのだろう。実際、弱気になった鍾会は撤退の指示を出し始めていた。

あと、もう少し。もう少しだ。
そんな時。歯を食いしばって奮戦していた彼らの元に、成都からの勅使がやって来たのだった。
魏蜀両陣のぶつかりあう場には似つかわしくないほどに、勅使は穏やかな顔をして急を告げた。

『姜大将軍、どうか兵をお引き下さい。勅命でございます。陛下は降伏なさいました』

姜維は顔色を変え、勅使に向かい詰め寄った。

『何を馬鹿なことを! 今まさに、魏軍は撤退を始めようとしているところではないか!!』
『剣閣を避けたトウ艾将軍率いる別軍が、緜竹を抜け、成都に侵攻したのです』
『馬鹿な、そんな馬鹿な・・・!』

姜維は叫び、天を仰いだ。
その傍らで、張翼は剣を岩に斬りつけて叩き折る。

『くそっ! 終わりだ、伯約!!』

黙ったまま、姜維も自らの槍を落とした。





その後。
蜀軍の責任者として、姜維は張翼を伴って鍾会の天幕に出頭した。

鍾会はいかにも不機嫌そうに、周囲に当たり散らしていた。
どうやらトウ艾が自身を出し抜き、見事に成都を陥落させたことが気に入らないようだった。
同じ魏軍の大将ながら、どうも両者は決定的に不仲らしい。

なるほど。さすがにこれほどの大規模な軍ともなると、一枚岩ではいかないのだろう。
そんなことを思いながら張翼は、傍らの姜維の方を見た。
その瞬間に、張翼の背筋が凍りそうになる。

切れ長の目には鋭い光が走り、端整な頬には妖しい笑みが浮かぶ。
まるで舌舐りをして獲物を待つ、獣のような表情。
そのように凄まじいまでの姜維を、張翼はこれまでに見たことなど無かった。

いったい、姜維は何を考えているのか?
しかし、とうてい張翼には答えなど出ない。
ただ、姜維が諦めていないことだけは分かる。
彼の戦いは、いまだ終わってなどいない。

すぐに姜維は穏やかな表情の仮面をかぶり、いかにも恭しく鍾会に礼を取る。
張翼も姜維と同様に、鍾会に礼を取り始めた。





どちらが誑かしたのか。あるいは共に利用されたのか。
手を結んだ鍾会と姜維は、まずは成都のトウ艾の追い落としにかかった。

しかし鍾会の野心は、己を出し抜いたトウ艾を始末するのみでは満足しなかったようだ。
人払いをしては、謀議を重ねる鍾会と姜維。
その結果、鍾会の直属以外の将らはすべて兵権を奪われ、一つ所に閉じこめられた。
その異様な事の成りゆきに、張翼は眉を曇らせた。

姜維は、いまだ諦めていない。
きっと彼は、その命が尽きるまで戦うことを止めはしないのだろう。

蜀漢が瓦解した今となっては、すでに姜維は上官ではない。
姜維の孤独な戦いに、はたして張翼が付き従わう理由など無かった。
しかし・・・。




















「何を考えている、張翼?」
「あ、いや・・・」

不意に姜維に声をかけられ、張翼は我に返った。

「いや・・・ただ、少し昔のことを思い出していた」

ごまかすように言い放ち、張翼は酒を呷った。

「昔、と言うと・・・?」
「あ、いや。おまえに初めて会った頃のことやら・・・」
「ああ。君が南夷から成都に戻された頃の話か」

そう言って、姜維が悪戯っぽく笑う。

その昔、張翼は南夷に赴任したことがあった。
当時は若く、彼は理想のままに厳密な法治主義をもって異民族を統治しようとした。
しかしそれが仇となり、かえって反乱を招き、彼はとうとう中央に召還されることになってしまう。
張翼は、苦虫をつぶしたような顔で言った。

「・・・嫌なことを思い出させやがって」
「けれど、そこで君が召し還されたおかげで我らは出会うことができたんじゃないか」

姜維は相変わらず笑みを浮かべながら、張翼の杯に酒を注いだ。

「それに君の才は南夷の統治では発揮されなかっただろうしね。君のことは丞相もとても買っておられたよ」
「ちぇっ・・・。そう言えば、あの頃のおまえは、まるで犬ころのように丞相の後ばかりをついて回っていたな」

返杯しつつ、張翼が反撃する。
すると姜維も、酒で朱に染まった頬をさらに赤らめて反論する。

「犬とは何だ、失敬な」
「フン。ま、もっとも丞相の方も、随分とおまえのことを買っていたみたいだけどな」
「それは・・・どうかな」

杯を傾けながら、まるで独り言ちるように姜維がつぶやく。

「それにしても君の口の悪さは相変わらずだな、張翼」
「そうか」
「ああ。私が大将軍に上った後ですら、君だけは容赦が無かったからな」

積極的に北伐を試みようとする姜維に対し、張翼はしばしば反対の立場を取ってきた。
皇帝である劉禅の御前ですら、張翼は姜維に異議を唱えることを厭わなかった。

「・・・私は君が苦手だった、張翼」

くすくすと笑いながら、姜維は言った。

「・・・気が合うな。俺もおまえは気にいらん、伯約」

ぶっきらぼうに、張翼が応戦する。
姜維は、ますますおかしそうに笑みを浮かべながら続けた。

「よくも言ってくれたものだな。では、今まで何故に私の側にいたのだ、張翼?」
「それはこちらが尋ねたいことだ。・・・どうして俺を側に置いてきた、伯約?」

すると姜維は、強く張翼の目を見て言った。

「・・・仕方ないさ。この国に、君に代わるほどの者などいなかったのだから」
「俺だって同じことだ。この国に、おまえに代われる奴なんていやしない」

張翼もまた、姜維の双眸を見据えながら応えた。

姜維が駆け上がるように蜀軍での地位を高めていくさまを、張翼は誰よりも間近に見てきた。
諸葛亮の後押しがあったとはいえ、元々は降将であった男。
派閥も持たず。ましてや閨閥も持たず。
己の才覚のみを頼りにして、この男はこれまで戦ってきたのだ。

大将軍にまで上り詰めた姜維は、まるで憑かれたように北伐を敢行した。
まるで師と仰いだ諸葛亮の・・・あるいは劉備、関羽、張飛三兄弟の、幻のような夢の残骸に取り憑かれたように。

蜀の地に生まれ育った者として、張翼には姜維が理解できなかった。
無論、張翼も蜀軍の要の一人として、当地を守ろうと生涯をかけて戦ってきた。
しかしそれはあくまで、故郷である "蜀" という "地" への想いゆえだ。
そこまで "蜀漢" という "国" に対しての思い入れはない。

しょせん "国" は、流転するものだ。
現に張翼の知る限りでも、この蜀の支配者は益州牧・劉璋から劉備、劉禅親子へと変遷してきた。
そして己も流れるまま、その時々の国家へと仕えてきた。

そのような身には、"蜀漢" という "国" に全てを尽くそうとする姜維は理解を超えていた。
ましてや姜維は北方の出身であり、この蜀に縁もゆかりもないのだ。

皇帝自らが魏に降伏した今となっても、いまだ戦いをやめようとはしない姜維。
いったい、何がそこまでにこの男を駆り立てるのか。

「・・・随分と、鍾会と気が合っているようだな」

張翼の言葉に、姜維は一瞬目を光らせる。

「・・・ああ」

注意深い様子で、それだけを答える姜維。
張翼は辺りに目配りをしながら、姜維に向かってつぶやいた。

「何を考えている、伯約? もはや陛下は降伏され、その御身も安泰だ。これ以上おまえは何を望んで・・・」
「・・・張翼、」

張翼の言葉を遮るように、姜維は静かに名を呼んだ。

「張翼。・・・私は君が苦手だったが、君のことは好きだったよ」

姜維は少し眼を伏せ、穏やかに言った。
しかしそこには、これ以上の張翼の問いかけを許さない確固とした雰囲気があった。

「・・・気が合うな。俺もおまえは気に入らなかったが、別に嫌いではなかったからな」

張翼の言葉に、姜維はふっと花のような笑みを漏らす。

その時。
どこからか入り込んだ真の花びらが、ふわりと杯に舞い降りた。

「中庭の桃だろうか」
「ああ・・・」

宮城の中庭には、先帝・劉備と、義弟である関羽、張飛の三兄弟の故事にちなんで造られた桃園がある。
薄紅色の欠片が酒に浮かぶさまを見て、姜維はため息をもらした。

「不思議だな。とっくに皆、亡くなって・・・国すら喪ってしまったというのに。こうして今年も桃の花が咲くなんて・・・」
「感傷的な物言いをするな。春が来れば、花が咲くのは当たり前のことだろう」

張翼は不機嫌に言った。
しかし姜維はかまう素振りも見せず、花びらごと酒を飲み干した。

「・・・次は花見酒といこうか、張翼」
「ん?」
「無事にひと段落がついたら・・・桃を眺めながら、また一緒に飲もう」

何気ない姜維の言葉。
しかし張翼には、それだけで充分だった。

「・・・ああ。約束だぞ、伯約」

張翼は祈るような気持ちで、己も花びらごと酒を呷った。





















しかしながら、その約束は叶えられることが無かった。
姜維は鍾会と結んで魏への最後の戦いを仕掛けるものの、敗北し命運尽きる。
同じく張翼も最期まで姜維と共に戦いながら、やがてとうとう力尽きた。





はたして、天命及ばず。
景元五年正月戊午の日、蜀漢の大将軍姜維ならびに左車騎将軍張翼ともに死す。

2005年3月3日 たまよ作成





またもたまよさま(会員ナンバー2でございます!w)より素敵小説を頂戴いたしました!いつも本当にお世話になっておりますm(_)m
姜維さんの決戦前のお話だそうで・・・。気の置けない間柄の張翼と思い出話をしては揶揄ったりちょっと怒ったりする姜維の姿にこちらまで嬉しくなってしまいます。彼の背負ってきたものは想像を絶するだろうし、何より姜維自身の自分自身へのプレッシャーが凄かったのではないかな、、と何となく思ってみたりです。派閥を作らずにたった一人で戦場なり朝廷なりに立ってきた彼の姿を思うだけで涙が出ますわ。それだけに、こうやって美味しい酒を飲める張翼が隣に居て酌交す姿を見れるのは、私にとっては救いです(T_T)
楽しそうに話している二人が微笑ましくてv何気なく次の約束をしている姜維さんが、何だかホッとします。その後を想うと余計に切なくなりますけども(大泣
でも、張翼も思っていたように、姜維が北伐の先に見据えていたものは一体なんだったんでしょうか。
周りから見ればそれは"夢の残骸"でしかなかったのでしょうけど、諸葛亮より託された彼には、やっぱり鮮やかに先が見えていたのかな・・・とか拝読して思いました。
張翼さんの仰るとおり、繁栄があれば必ず滅びるものなんでしょうに、決して振り返らなかった姜維。ほんとに、どんな強い想いが彼を動かしていたんでしょうか。
簡潔に運命を記されている最後の一文がもう、凄く切ないです。でも信念を貫いた彼の生き様をまさに示しているようにも感じて、、。まさに男前で御座いますよ!姜維!!
言葉の響きがとても美しくて、姜維の様々な表情がもう、かっこよすぎてキュン死にします・・・!
姜維の命日に、こんなにも素晴らしいご作品を本当にありがとう御座いました!(><)ああっ、、うちで姜維命日にあわせてupさせて頂けるなんて、ホント感激です・・・!。゚(゚´Д`゚)゜。

紳士的で優しくて、しかも信念を持った漢前姜維さんを沢山拝見しに、木の空様へいざ参る!



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