雪が、白く儚げに舞い落ちていた。
一度息を付いて空を仰ぐと、吸い込まれそうなほど深い灰色の空洞。
それから、彼はゆっくりと目の前に対峙する男へと視線をやった。

その双眸に映るは、 蜀漢大将軍  姜維






「私は、貴方にとても酷い事を望んでいるのかもしれませんね」

書簡に筆が滑る微かな音の中洩らされた声を姜維は上手く理解できず、え?と面を上げた。
そこには彼の師が、相変わらず優しげに、それでいて少しだけ申し訳無さそうに微笑っていて。



新月だった。
暗い廟宇の中にある像の前で、彼はただ一人じっと姿勢を正し座っていた。
蝋燭の明かりすらも無い仄暗い室内だというのに更に闇を求め、外界の全てから己を隔離するかのように深く瞼を閉じる。
精神を集中させて内側から溢れるものだけを受け入れようと神経を鋭く研ぎ澄ませた。

深い深い闇に、一点だけ存在する、"命"あるもの。

様々な顔が次から次へと彼だけが居る闇の中に浮かび上がった。それは彼が良く見知って、何より尊敬し師事を受けた豪傑であったり、同胞の者達であった。
今は亡き英雄の面影が暗い闇の中にぼんやりと浮かんでいて、とても穏やかな表情を浮かべて彼に微笑みかけている。
今にも声を掛けてきそうで、決して触れる事すらできない人々は彼の前で微笑を浮かべて静かに佇んでいた。

暗闇の中にぼんやりと何所までも朧に揺らめく微笑。うつつではない其処。

それは黄泉からの迎でも、暖かく彼らが見守ってくれている訳でもない。ただ、彼の記憶に過ぎないのだ。
ゆっくりと閉じていた瞼をあげ、新月の闇を受け入れる。

―――まだ、振り返る時では無い。



微動だにすることなく、静寂のみの空間に身を置いた。静かな空間は逆に彼の耳に様々な騒音を届ける。
戦場へと彼を慕い付き従うものと、対し批判する物の声は止むことなく彼の耳に常に入っていた。功名心にはやり、己の欲の為に蜀を戦火へ巻き込む厄介な男だと陰口を叩かれる事にももう慣れてしまうほどに聞き飽きていた。
夢を忘れ、目の前の安寧を貪り喰う輩が吐くそれらの言を別段否定する気にもなれず、自身がすべき事のみを朝廷内では言葉にしてきたのだが、何を恐れるのか、表立って声を上げる者はいないにも拘らずその声は次第に人々の不信を食い荒して肥満していった。
蜀を冥府へでも導く気なのか。

今、蜀の地がただ防御のみに徹していれば少なからず寿命が延びる事も、北伐を繰り返す所為で国力が疲弊していく事も分かっている。
だが目的はそれではなかったはずだ。甘言に酔った皇帝が失念し、長閑な生活に慣れた民衆が忘れてしまってもまだ夢を追い続ける者はいた。
彼もそのうちの一人に過ぎないのだから。
ただ、ひとつだけ違う所があるとするならば、それは請け負った荷の重さ。誰よりも尊敬する師と猛将等から受け継いだ輝くばかりの枷。
その重さを知っているからこそ彼は小さく口元を綻ばせる。
だったらどうだと言うのです。

蜀漢の最終目的はあくまで中原の回復、漢王朝の復興、そして、天下平定にある。
例え犠牲を払ったとしても、今従うべきは国是であり丞相の遺志であるべきではないのか。
そこまで考えて、ふと彼はいつも自嘲めいた笑みを浮かべてしまうのだ。
恐らく、"蜀の為に、漢王朝の為に"などという大義名分は彼には当て嵌まらないのだろう。
ただ純粋に尊敬し目標として、今でもまだ背中を追い続けている師が見続けた果てしなく崇高な夢を、この、彼の人が必要としてくれた腕で強く抱きしめたいだけに過ぎない。
遺志を果たす事こそ何より恩に報いる事だと思っていたし、彼の師が先帝と共に夢見た桃源郷はそこにあるものだと信じている。

何と不純で愚かしい想いだろう。だけど。


彼の丞相孔明に果たせなかった事がどうして我々にできよう 同志はそう云った。

尤もだと思う。自身が受け継いだものを受け入れることが出来るほど大きな器を持ち合わせていない事、彼の人の足元にも及ばない非才の身であることなど、誰に言われるまでも無く彼自身が一番良く知っていたのだから。
それでも、彼の人が望んだ道を追う意味が無いなど、可能性がゼロであるなど誰が言えるのだろうか。
それこそ過去や未来、千里の彼方全てを見通す事の出来る万能な力を持つ天帝でも無い限り不可能な話である。
そう、決してそれはゼロではないのだ。ましてやマイナスなどでもない。
可能性が少しでもある限り、絶対に止まることなく、これからも彼は走り続けることが出来る。

必死に追い求めるもの、彼の人の背中と重なるそれは、夢であり、望みであり、願いであり、―――決して幻ではない。


浅はかだど嘲笑う者が居るかもしれない、だが彼は朝廷であろうと戦場であろうと、自身に異議を唱える者を確りと見据えて口元を上げる事が出来た。
彼が譲り受けた絢爛な枷に巻きついていた "大望" と云う名の蛇は、今も力強く脈打つ彼の心臓に鋭い牙を立て喰らい付いているのだから。
これから先どんな事があろうときっと、その心臓が役目を終える時まで離れる事は無いのだろう。



薄暗い廟宇を満たす静寂の中で、静かに座る彼には迷いが見えなかった。

迷いなど、あるはずも無い。目前に自ら望んで紡いだ道をただ愚直に進むのみ。

初めて眉がピクリと動いたかと思うと、その双眸はゆっくりと目の前にある像を見上げた。
はるか高い視点から揺らぐ事無く真直ぐ注がれた目に、彼は少し眩しそうに目を細める。


―――いつかその視線の先に広がる光景を見ることが出来るだろうか。

その視線はあまりにも高くて、彼には到底届かないような錯覚を覚える。
力を望み、どれだけ必死になって背伸びをしても届く所か捉える事すら困難なその高み。いつでも霧が掛かったように霞んでしまう。
ただただ我武者羅に走って追いかけ続けたその背中。無我夢中で走るあまり失くしたものはあまりにも多すぎて。
それでも顧ずただ走った。託された自身に相応しい力が欲しくて、同じ視点で世界を見たかったから。

・・・だけど、懸命に走る彼の姿は、もしかするとただ幻想を追い求めて走る捨てられた幼子の様なものかもしれない。

ふと過ぎって、ぞくりと震えた身体を込上げてくる不安を押し込めるように彼は強く抱きしめた。
だが一度溢れそうになるそれらは安易に押し留められる物でもない。先刻まで一点の曇りも無かった表情が苦痛に歪む。

ほんとうに。

分かっていた。答えなど返って来ない。優しく諭してくれる訳でも厳峻に叱ってくれる訳でもましてや助言など絶対に与えてはくれない。
それでも問わずにはいられないのだ。誰が何を言おうと、彼自身が一番繰り返し問うて来た疑問。 本当に。




―――私は貴方に望まれるに相応しい人間なのでしょうか?―――




細く木々が揺れる音のみが聞こえる闇に包まれた廟宇の中で、
その背中は微かに震えていた。










雪が、白く儚げに舞い落ちていた。

目の前の男へと敬意を表して彼は口を開く。敵ながら尊敬するに値する人間だと思った。
「暗君と知って尚尽くすか。お主ほどのものが何故?」
しんと、戦場には似合わない静けさの中で彼の声だけが響く。
「魏に戻ろう、姜維殿。蜀と共に散る事は無い」
すると答えは待つまでも無く返って来た。どれ程情を込め彼が声を上げても、男の心はおろか、表情すらも変えることなどできはしないのだ。
凛とした生気溢れる面は崩れることなく正面を見据え、確りとした迷いの無い声は白い大地に響く。

「この身、この命、全ては蜀の為に。      
 丞相に誓ったのだ、私は負けられない」 

単調な言葉にはどれ程の想いが紡がれているのだろう、それは彼には計り知れないほど重いもののように思える。
切れ長の目は心を表すように逸らされる事無く彼を見据えていた。男の意志を変えるのは誰もが不可能だと悟る目。
男の瞳には、彼が映っているはずなのにそうではなくて。もっと遠い、そして敵対する彼ですら憧れてしまうほど深い深い色合い。


その澄んだ双眸に映るは、遥かなる広大な大地 ―――― 


真摯な視線に一度目を伏せると、彼は小さく溜息を付いた。何を思ったのか、ややあって、面を上げる。
「残念です、姜維殿」
彼の言葉に嘘は無かった。恐らく、その事は目の前に立つ男も解っているのだろう、その証拠に瞳の色は決して軽蔑ではない。
灰色の空洞に溶ける声を聞き終わると、男はゆっくりとした動作を取る。足場を動かした所為で白い雪が小さく啼いた。
それから、静かに獲物を構えた。


   
それは、終局の始まり  


























―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
全世界の姜維好き様、ほんっとうに申し訳ございません(平伏
そして2000打踏んでくださったおみさま、遅くなった上にこんなものしか御見せできなくてなくて申し訳ない限りです;;
リクエストは"姜維の背中"というものすごく男前な内容だったのですけど・・・!本当に申し訳ないとしか言いようがございません(土下座
ではではおみさま、この度は2千打踏んでくださりありがとう御座いました!
この様な駄文(ホント駄文も良いところですよね;拙すぎていっそ潔いかと☆(マテコラ)で申し訳ありませんでした;
私にはこのSSでいっぱいいっぱいですので、どうかご容赦くださいませ;無論感謝と愛情はめ一杯こめましたので!!
では、また何か機会がございましたら、どうぞお付き合いくださいませv(懲り懲りですか、そうですか・・・!
駄文失礼致しました〜(脱兎

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送